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WEB NOVEL / PROLOGUE 01

WEB先行版・書き下ろし

月より遠い、
醤油差し。

ひとくち天災 約5分

月の石まで見える。

そう言った天野透に、橘ひよりが最初に返した言葉は「すごい」ではなかった。

「じゃあ、そこの醤油取って」

九月の放課後。調理室には、焼きたての卵焼きの匂いが残っていた。窓の外にはまだ青い空があって、その端に、薄い月が浮かんでいる。

透には、その月に転がっている石が見えていた。

欠けた縁。細い影。石の下に入り込んだ、さらに小さな砂。
そこまで見えるのに、机の上は、輪郭のない色のかたまりだった。

「……どこ?」
「目の前」
「目の前が、いちばん見えない」

ひよりが黙った。
信じてもらえなかったのだろう、と透は思った。いつものことだった。

けれど、次に触れたのは、冷たい醤油差しの側面だった。彼女が、透の右手まで運んできたのだ。

「持てる?」
「うん」
「じゃ、それ。二センチ右」

透は言われたとおりに動かした。

「ありがとう」

そんな簡単なことで礼を言われたのが、少し久しぶりだった。

白い皿の上には、ブルーベリーがもう一粒残っていた。

ひよりが作った試作デザートの材料だ。透は、料理研究部に入ったばかりの彼女に、試食を頼まれた。断り方を探すより先に、皿の上の小さな青を見てしまった。

たった一粒なら。

何度も後悔して、そのたびに、また使ってしまう言葉だった。

「なんで先に言わないの」

ひよりの声は、怒っていた。

「言うと、食べさせてもらえなくなるから」

口にしてから、子どもみたいな言い訳だと思った。
それでも、ほかに説明のしようがなかった。

天野透の体は、食べ物に大げさすぎる返事をする。

目に関わる作用なら、目だけが。熱に関わる作用なら、熱だけが。
人の何万倍も先へ行くくせに、残りの体は置いていく。

コーヒーを飲んだ日は、友達が「おはよう」と言い終わるまでが、ひどく長かった。
頭の中ではいくらでも返事ができた。口は、一度しか動かなかった。

便利だね、と言われる。
役に立つね、と言われる。

そのあとに誘われるのは、だいたい、食事ではなかった。

「いつも、何食べてるの」

透は鞄の中を探った。指で縫い目を確かめて、決まったポケットから、銀色の小さな袋を取り出した。
何度も検査と調整を繰り返して、ようやく食べられるようになったものだ。

ひよりが袋を受け取った。
カサ、と薄い音がした。

「味は?」
「安全」
「それ、味じゃない」

知っている。
透は、笑うつもりで息を吐いた。

ひよりは、しばらく何も言わなかった。
包丁を片づける音。水道の音。皿が重なる音。

デザートは、下げられたのだと思った。

ああ、終わった。
これで彼女も、透の前には料理を出さなくなる。

「手、出して」

言われて差し出すと、指の間に、一本のスプーンが収まった。

「何?」
「まだ何も。持つだけ」

その声が、さっきより近かった。
ひよりは隣の椅子に座っていた。

「今日ここで、適当に混ぜて食べさせたりしないから」

透の肩から、少し力が抜けた。

「まず、聞く。食べられたもの。食べられなかったもの。どれくらいで戻ったか。嫌だったこと。全部」
「……面倒だよ」
「料理って、わりと面倒なものだよ」

紙をめくる音がした。

「卵焼き一個だってさ、甘いのが好きな人と、しょっぱいのが好きな人がいる。冷めてから食べるなら、また変える。そういうのを考えるのが、作るってことでしょ」

透は、スプーンの柄を親指でなぞった。

彼女が言っているのは、透の体を治すという話ではなかった。
透に合わせて、料理を変えるという話だった。

「俺だけ、手間が何万倍もかかる」
「そこまで律儀に体質そろえなくていいから」

思わず、笑った。

ひよりも笑った。たぶん。
月の砂ばかり見えて、その顔はまだわからなかった。

「じゃあ、最初の質問」

ペンの先が、紙を軽く叩いた。

「何が食べたい?」

透は答えられなかった。

何を食べるとどうなるかなら、答えられる。
何を食べてはいけないかなら、もっと詳しく答えられる。

でも、その質問には、しばらく答えていなかった。

「……同じのがいい」
「何と?」
「みんなと」

声にした瞬間、ずいぶん小さな願いに聞こえた。

同じ皿。同じ量。同じメニュー。
昼休みが終わる前に食べ終えて、うまかったとか、ちょっと熱かったとか言いながら、教室に戻る。

月なんか、見えなくていい。

「あ、でも」

慌てて付け足した。

「おいしいほうがいい」

ひよりは、今度ははっきりと笑った。

「そこは任せてよ」

窓の外が、少しずつ夕方になっていた。

月面の石が、遠ざかりはじめた。輪郭がほどけて、代わりに、窓枠の線が戻ってくる。
透の視界は、ようやく、この調理室に帰ってきた。

ひよりのノートが見えた。

いちばん上に、大きな文字があった。

『天野透が、普通におかわりできる料理』

その下は、まだ真っ白だった。
レシピも、答えも、一行も書かれていなかった。

なのに透は、今日初めて、ちゃんと腹が減った気がした。

「決めた」

ひよりが、ペンを置いた。

「私、あんたを弱くする料理人になる」

ヒーローになれ、と言った人はいた。
もっと強くなれる、と言った人もいた。

弱くなっていいと、言われたのは初めてだった。

「……注文、つけてもいい?」
「どうぞ」

透はスプーンを置いた。
目の前にいる人の顔を、今度は、ちゃんと見た。

「強くするな。うまくしてくれ」

ひよりは、空の皿を引き寄せた。

「はい。承りました」

PROLOGUE / END

ふたりの献立は、
まだ白紙。

本サイト用に書き下ろした先行版です。
本編制作にあわせて改稿する場合があります。

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